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October 2006

October 25, 2006

マクガワン35万円高裁判決、闘いはこれから【大橋】

 大橋が以前にご紹介していた、アフリカ系アメリカ人マクガワン氏の入店拒否事件で、10月18日、大阪高裁で控訴審判決がありました。
(↓以前のブログ記事) 
http://osaka-futaba.cocolog-nifty.com/futaba/2006/01/index.html
 結果は、マスコミに注目しておられた皆さんはご存じでしょう。1審判決を破棄し、35万円の金銭支払を命ずる一部勝訴判決でした。

 実はこの日、私は法廷に入るのが遅れてしまい(というより、判決の言い渡しが1分ほど早かった)、入ってみると法廷内が静まりかえっていました。まだかな?と思ったら裁判官が立ち上がりました。
 弁護団の1人の弁護士が、「勝ちましたよ!」とにっこり笑ってくれたので、ともかく肩を叩き返して喜びました。
 マクガワンさんと弁護士は握手したり抱き合ったり。
 私はこういうとき、おくてで、後の方で様子を見ているのです。

 しかし・・全体に静かな退場です。「で、いくら?」「35万円です」
 法廷では主文しか読み上げませんので、「どうして35万円なのか」は判決文をもらって読まないとわからないのです。

 そこで弁護士たちは書記官室に行き、判決文の受け取りを行いました。
 少し待ち時間があり、「どう思う?」と予想をしました。
 「黒人差別を認めずに単なる入店拒否をしただけだというなら、30万円にもなるはずがない。黒人差別は認められていると思う」と1人の弁護士。
 「いや、これまでに人種差別を認定した判決は、100万円を超えている。きっと黒人差別は認定していない。」と他の弁護士。

 ようやく判決文が手に入り、1人が早口で読み上げます。30分後には記者会見を予定していたため、ゆっくりしていられません。
 内容は・・黒人差別を認定していませんでした。現場で「黒人キライ」という言葉を店主が吐いたかどうか、直接の証拠もないので、マクガワン氏の証言と店主のかつて黒人に被害を受けた経験(悪感情)だけしか認定材料がありません。マクガワン氏の証言については「日本に11年も住んでいて『黒人』という言葉を聞いたことがないのは不自然」「日本語能力からすると聞き誤りもあり得る」とされました。店主の黒人差別感情については「それが行為として客観的、外形的に明白であるとは言えない以上、当該行為をその感情故の人種差別的行為と認定することには慎重であるべきである」という見地から、人種差別的意図をもって行われたと認めるには不十分だとされました。
 では、どうして35万円(うち弁護士費用として5万円)という判決が出たのか。それは、お客かもしれない人に対する対応としては「その仕草(腕を振って追い払う)を含めて考えると、健全な社会通念を逸脱した一方的かつ理不尽な攻撃的行為であって、このような対応をされた者にとっては、自己を貶められたように感じ、強度の不快感を抱くに至るであろうことは容易に推測できるのであって、控訴人もまた同様であったものと推認することができる」からだということでした。
 店の前から腕を振って追い払われた、そのことに対する慰謝料として30万円が認められるのは、かなり異例であると言えるでしょう。
 この30万円は、裁判官が、「マクガワンさん、お気持ちはよくわかりますよ、しかし判決には証拠が要るから、これが限界です。せめて金額で勘案させてもらいました。」というアピールを込めて算定した金額だと言えるでしょう。

 ともあれ、第1審よりはよほど血の通った審理と判決が出たものと思います。
 マクガワンさんも、そのことに気を和ませたのでしょう。「この判決は、終わりではなく、始まりです」と記者会見で述べていました。翌日、「上告はしない」と連絡をしてこられました。
 マクガワンさん、お疲れ様でした。弁護士費用はもちろん5万円で済んでいません。大変な労力と心労を重ねた2年間だったと思います。しかし、貴方の行動が一つの波を日本の国に起こしてくれたのです。大きな支援の輪もできました。差別を我慢してきた人たちを力づける成果としていきたいと思います。

October 14, 2006

「いま一度、死刑を考える~あなたが裁判員になる前に」報告【大橋】

「shikeiteisi.pdf」をダウンロード

 今日は、日弁連の主催する「死刑執行停止に関する全国公聴会」の第4弾、大阪公聴会が開かれました。
 これは、日弁連が「死刑執行停止法」の制定を求めるためのキャンペーン企画です。
 大阪公聴会は、テーマを「いま一度、死刑を考える~あなたが裁判員になる前に」としました。
 3年後の2009年からは、裁判員制度が始まります。
 我々弁護士など法曹関係者は除外されていますが、皆さんが裁判員に当たり、「死刑判決を言い渡すかどうか」を決める場面に立ち会うかも知れないのです。

 松井が小説家の高村薫さんの講演に行きたかったと残念がっていましたので、早速ですが高村さんの基調講演についてご報告しておきましょう。

 高村薫さんは、最近、死刑問題でのコメントを新聞紙上によく出されています。
 ほとんど外で講演することがない方のようですが、この企画には、人づてでの依頼で講演をお引き受けいただきました。

 高村さんの人柄についてですが、大変丁寧な物腰の、穏やかな方なのです。全然偉ぶるところなどありません。写真だと愛想のない感じに写ってしまうのがソンだなあ・・というのは私の感想です。

 そして、基調講演を45分間という時間でお願いしていたのですが、おそらくきっちりと組み立てをしてこられたのでしょう、全く言葉の無駄のない講演でした。この緻密さが小説の書き方にも反映しておられるのでしょう。

 そして、内容です。

1 まず、私たちは、死刑というものの実態について、何も明らかにされていない。知らない。しかし、裁判員制度が導入されれば、これを考えざるを得ない立場に立たされる。

2 そうなるのであれば、どうしたらよいか。できるだけ具体的に、死刑とはどういうものかを想像してみることである。
  私は臆病である一面、知りたがりで、死体というものがどのようなものかを知るため、大学の法医学教室に出入りしていた。また、親族の死に4回立ち会っている。病院のベッドの上で亡くなるという平和な死でも、やはり非日常的である。事件で死ぬ、あるいは刑死するというのは、もっと非日常的なこと。首に縄を掛けられて、下の板が落ち、体が垂直落下する。全身がけいれんするに違いない。目を覆うばかりの光景であるはず。
  その光景を想像して、どう感じるだろうか。
  核保有国は、核で戦争を抑止すると言いながら、実際の核の被害を知らない。それと似ているが、私たちは死刑が必要だと言いながら、実際の死刑の実態を知らない。
  今や、死刑廃止された国も多い。死刑がどのようなものかを知り、それが存置されるべき根拠(プラスとマイナス)を明らかにする必要があるのではないか。
  これまで日本で死刑の情報が何ら公表されてこなかったのは、あまりに残酷で公表に耐えないからではないのか?

3 次に、私が裁判員になったときのことを想像してみる。
  私はどうしても死刑を言い渡せそうにない。その理由は4つある。
 ① 死刑の基準が曖昧である。最高裁判決の基準に沿って、広島の女児殺害犯人は無期懲役とされたが、最高裁判決の基準に従う必要がないとして、奈良の女児殺害犯人は死刑判決を受けた。裁判官でもこれだけ判断が違う。裁判員は何を根拠に判断すればよいのか分からない。
 ② 刑事裁判の判断は難しい。被告人が否認し、状況証拠しかないとき、有罪か無罪かさえ判断に迷う。そのとき、裁判員は有罪かつ死刑判決まで出してよいのか。
 ③ たとえ明らかな「死刑事案」であったとしても、なぜ裁判員であるからといって私が死刑を言い渡すことができるのか、それが納得できない。
 ④ もし判断が間違っていたとき、どうするのか。一市民が民事ではなく刑事の裁判に駆り出されて、死刑判決の重荷を背負わされる。一生忘れることのできない経験として残る。一市民を刑事裁判に駆り出すというのなら、せめて、死刑は廃止するか停止するかしてほしい。

4 最後に、死刑制度は誰のためにあるのかを想像してみる。
  死刑存置派の人も多いが、これは消極的存置賛成ではないかと思う。反対派が「人道上の理由」を言うと、「では被害者の気持ちはどうなる」という反論に答えきれない。
  現状は、死刑とはどのようなものかを知らされていないから、議論も抽象論にしかならない。抑止的効果が言われるが、これも抽象論である。死刑には、再審というやり直しの機会がセットであろうが、この門戸も大変狭い。
  それでは、誰のためにあるのだろうか。
  被害者遺族のため、という議論がある。しかし、それは違うと思う。被害者遺族が負うのは、喪失感である。喪失感を一時的に埋めるなぐさめになるのが、「犯人に対する怒り」である。しかし、犯人が死刑により存在しなくなると、後にはやはり喪失感が残るだけである。私はそのことを阪神大震災を機会に考えるようになった。
  それでも、被害者遺族の一時的ななぐさめのために死刑は必要だ、と考えるかどうか。私は、死刑は「法律のためにある」としか考えられない(人のためではない)。そして、死刑判決・死刑執行は時の政府の考えで方針がコロコロと変わってきた。人の命がこのようなことで生かされたり殺されたりしてよいのか。
  「国民感情」という議論もある。しかし、「人の噂も75日」である。忘れないのは被害者遺族である。しかし被害者遺族は先に述べたように喪失感こそが問題。

 ・・概略、このような問題提起でした。

 大阪公聴会が掲げたテーマに沿って、「裁判員としてあなたはどう考えるか」を深く考察していただきましたが、会場も緊張し集中してこの講演に聞き入っていました。

 本当に、裁判員裁判で死刑事件を取り扱うということは残酷です。一市民である裁判員6名が、協力して、被告人を死刑台に送る役割を果たすことになるのです。
 奈良の女児殺害事件の被告人は、控訴を取り下げてしまいました。「自分たちは死刑判決をするが、また控訴審で審理してもらえるからいいだろう」ということには必ずしもならないのです。
 裁判員制度導入の前に、死刑をぜひ停止(できれば廃止)するべきだと思います。
 死刑事件について「必要的上訴制度」を導入すること、即ち必ず控訴審上告審で判決をチェックすることも、経過的に導入が検討されるべきだと思いました。
 

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