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November 2004

November 06, 2004

死刑を廃止しなければならない理由

 大橋です。松井が3本連続で書きましたので、次は私が。

 10月7日、8日と、日弁連の人権擁護大会がありました。私は行かなかったのですが、宮崎市で開催され、シンポジウムのテーマの一つが「死刑問題」でした。
 「死刑問題」では、私の所属する大阪弁護士会人権擁護委員会第3部会(刑事手続と人権部会)でも講演会を開くなどの取り組みをしてきました。
 
 「死刑」という刑罰は、実は今や先進国で存置しているのはアメリカと日本だけです。
 国際的な潮流は、はっきり言って「死刑廃止」なのです。

 しかし、被害者救済の観点からすると、「どんな凶悪犯でも死刑にならないのか!」という感情論が強くあって、日本では廃止の見通しは出ていないのが現状と言えるでしょう。

 現在、日弁連が提起しているのは、「世論が熟するまで、とりあえず死刑執行を停止するための法律を作ろう」というものです。

 私からしますと、折衷的・妥協的な提案だな、というのが正直な気持ちです。
 私は、死刑は廃止すべきと考えています。

 死刑廃止論の根拠は、「えん罪であった場合に償いようがない」「国家においても殺人は正当化されない」「死刑を存置しても凶悪犯罪の抑止力にはならない」などがあります。
 私が死刑を廃止すべきと考えるのは、第一にはほとんど感覚的な「人を殺してはいけない」という思いからです。
 これは、おそらく人間全体の中で共通項になる観念でしょう。
 しかし、例外として「死刑にしてもよい場合がある」のかどうか、これが問題にされているのです。
 「被害者感情からすれば当然」あるいは「死刑により凶悪犯罪の発生を抑止する」ために死刑が正当化されるのか。

 「死刑により凶悪犯罪は抑止される」、詳しくは統計調査に待つべきなのかも知れませんが、こんなことはあり得ないでしょう。死刑になるか20年くらい刑務所で我慢すれば出られるか、などということを殺人の前に考えるでしょうか?

 「被害者感情」、これは軽く扱えないことだと思います。大事な家族を殺された遺族は、加害者がのうのうと生きていること自体を許せないのではないか・・こうした同情の気持が「死刑存置」の多数世論を支えています。
 しかし、遺族は加害者が死んだら気持が収まるでしょうか? 加害者が、死刑執行をおそれ、あるいは待ち望んで(結局は被害者のことを考えずに自分のことばかり考えて)死んでいくのでは空しい気持が残らないでしょうか?
 まさに、池田小学校事件の死刑囚は遺族に空しさを残して死んでいってしまったように思うのです。

 ここで、死刑廃止論者で有名な、亀井静香氏(衆議院議員)の話をご紹介します。
 冒頭で紹介した人権擁護大会シンポジウムで、亀井氏はパネリストとして参加し、死刑廃止論の理由を語ったそうです。(参加した弁護士からの伝聞ですが)
 「えん罪のおそれ」、これは、警察行政に関わった経験からして「必ずある」。
 それから「被害者感情」について。被害者は、なぜ何の罪もない者がこんな目に遭うのか、と憤慨して加害者に死刑を要求する。しかし、およそ人が生きていて「何の罪もない」などということはない。生きるために必死で仕事をし、自分の事業が成功すれば、その陰では事業が落ちぶれて首をくくる人がいるのだ、と。

 加害者には加害者の、人を殺すに至った事情があります。彼・彼女の責任もあり、成育環境や交際関係、やむにやまれぬ追い込まれた事情もあります。
 逮捕され、取調を受ける中で、初めて自分を理解しようとしてくれる人に巡り会った、という死刑囚もいます。
 遅すぎた出会い、でもそこから彼・彼女は自分を見つめ返す機会を得て「人を殺してはいけなかったのだ」という人間的な感覚を思い出し、あるいはそこから育んでいくのです。
 よき出会いを得て人は成長するのだと思います。生きている限り、どの時点からでも。
 
 私も、人の成長の可能性を信じています。だから、成長の機会を摘み去る「死刑」には反対です。

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